土岡俊介さんへ
こんにちは、結城浩です。
No.02で土岡さんからいただいたお返事を読み、あれこれと考えていました。
記憶と理解
最初に驚いたのは「まずは定義を記憶してしまいましょう」という部分でした。 というのは、ふだんから結城は「数学を学ぶときに、まず暗記に走るのはよくない」と思っており、 拙著『数学ガールの秘密ノート/学ぶための対話』の登場人物たちも、概ねそれに賛同してくれているからです。
往復書簡の中でいきなりそこをひっくり返されてしまうのか、とやや焦ってしまいました。 でも落ち着いて土岡さんの文章を読むと「暗記」ではなく「記憶」と書いていることに気付きました。
さらに、結城の学び方を自分で振り返り「記憶」をどのように扱っているかを確かめてみました。 結城はたいてい『ベーシック圏論』を読み、 本を閉じ、自分で理解した内容をノートに書き、#今日の圏論というツイートにし、結城浩の圏論勉強プロジェクトに放り込んでいます。
書いていく途中で何か概念が出てくると、その概念が確かにそれであるかどうかを確かめます。 たとえば圏ならば対象と射があり、 すべての対象が恒等射を持ち、 射はドメインとコドメインを持ち……恒等射とは……合成射とは……と確かめます。 その作業は、自分の記憶を確かめる作業なのかもしれません。
ふだんはあまり「記憶する」ことを意識していなかったのですが、 お勧めにしたがって「まずは定義を記憶する」ことも試みてみます。
形式的な定義への信頼
さて結城は、数学の「形式的な定義への信頼」というのをそれなりに持っていたつもりでした。 与えられた公理を出発点とし、 その公理を満たすものが「それ」であると考えて議論を進める態度のことです。 群や位相空間などは、その抽象度のままで信頼できます。
でも、圏論の学び始めのときはうまくそれが効きませんでした。 「対象」と「射」を、それぞれ「集合」と「写像」のことだと誤解してしまったからです。 確かに、No.02に書かれていたような「自分の現在の度量衡での意味」を考えすぎてしまったのでしょう。
結城は「意味を考えすぎる」ことを「着地したがる」と自分で表現することがよくあります。 抽象度を上げたまま議論するのは、 地面から足を離し、グライダーのように高いところを飛ぶのに似ていると感じるからです。 グライダーを信頼できればいいのですが、恐くなるとすぐに着地したくなります。 でも、考えてみると「鳥の目で数学を俯瞰する」ためにはそれではまずそうですね。
必要に応じて具体例を使って「着地」するのは大切でしょうけれど、 それと同時に形式的な定義を信頼して高いところまで飛べるようになりたいものです。
自然変換と二重双対空間
結城の学習は圏→関手→自然変換と進み、 No.02で土岡さんにご紹介いただいた『ベーシック圏論』の例1.3.14も通過しました。 双対空間の構成が反変関手になることを確かめて、 二重双対空間の構成が共変関手になることを確かめて、「標準的な同型」といいたくなるものを構成するところを確かめました。
その途中で「これは圏論というよりも線型代数ではあるまいか」と思い、 松坂和夫『代数系入門』も読み返しました。 その第4章に再双対空間(\(V^{\ast\ast}\))と“自然”な同型写像の話が出てきて、 変数と写像を入れ替えている様子が説明されて納得しました。
「興味の赴くままに調べたり考えたりするのがよい」という土岡さんの言葉をはげみに進みたいと思います。
普遍性について
そういえば、二重双対空間を学んでいるときに生じた疑問があります。
線型空間\(V\)とその双対空間\(V^{\ast}\)の同型を確かめる部分では、基底の選択という恣意性が必要ですが、 線型空間\(V\)とその二重双対空間\(V^{\ast\ast}\)の同型を確かめる部分では、そのような恣意性が入りません。 \(V\)から\(V^{\ast\ast}\)への同型が「標準的(canonical)」と表現されていましたが、 これは「普遍性(universal property)」とはまた異なるものなのでしょうか。
結城はまだ普遍性についてきちんと理解できていないのですが、 いまのところは「特定の要素をことさらに選んだりするような恣意性なしに定まる」や「一点だけに注目するのではなく全体をにらんだ上で決まる」ほどの意味合いでとらえています。 \(V\)から\(V^{\ast\ast}\)への同型写像というのも同じように感じてしまいます。
これもまた「自分の度量衡による意味」を考えすぎているのかもしれませんけれど。
「圏論ならでは」について
圏論について考えていたつもりなのに、 いつのまにか線型代数や位相空間の本をめくっているという現象がよく起きます。 圏論の例として登場する数学の理解を確かめるために起きる現象です。
それ自体に不満はありません。 「この分野の数学的対象は、圏論の言葉でこんなふうに表現できるのか!」 という驚きはたいへん心地よいものだからです。
たとえば、行列式を自然変換と理解できる(『ベーシック圏論』の例1.3.5)というのは、結城にとって感動的な例でした。 「自然性公理の図式が可換になっていること」と「行列式はすべての環について一様に定義されていること」が呼応するなんて!
圏論の学びを進めていくにつれて「数学的対象を圏論の言葉で述べることで、新しい光が当たる」ことをさらに期待したいです。
ところで、その一方、こんな疑問も抱きました。 圏論の言葉で新たな表現を得るのはいいけれど、 「圏論でなくてはならない何か」 はあるのだろうかという疑問です。
「多様な数学的対象や数学的事実に対して抽象度が高く統一的な表現を与える」以上の「何か」。 圏論がなければ導くことができない「何か」。 「圏論ならでは」の「何か」。 そのようなものがきっと存在するはずだと思うのですが「それ」は何でしょう。 そしてその「何か」は、圏論初学者でも出会い、理解することができるのでしょうか。
そんな疑問を持ったのです。
もしかしたら、見当外れの疑問かもしれませんが、ご教示いただければうれしいです。
それでは、今回はこのへんで。お返事を楽しみにしています!