結城浩さんへ

お手紙ありがとうございます。20年以上前ですが、結城さんの本を読んでいました。このような機会をいただけたことに感謝します。

論理と直観

さっそくですが、《二つの世界》について。個人的には数学そのものが「われわれの住む物質からなる世界」(『ベーシック圏論』86ページ)とは異なる一つの体系であるように思われます。3+2=5のように身近な例で解釈できることもありますが、いくつかの数学的対象をよく理解するには「形式への信頼」という態度が必要になるでしょう。ある(比較的よく理解できる)ものの存在を認めるならば、同様に論理的なものは、等しく形式論理(あるいは集合論の宇宙)の中に存在します。一見非直観的な対象でも、定義から出発できて、一つひとつ性質を論理的に演繹する中で、何かしら直観とでも呼ぶべきものがえられることを知っているのが、数学的成熟度に関する一つの物差しだと思っています(数学的成熟度については、謎の数学者【アメリカ大学准教授】による数学の学び方に関する一連のyoutube動画も参考になります(敬称略))。『ベーシック圏論』の「読者への注意」にある「焦らないこと」風にいうなら、「自分の現在の度量衡での意味を考えすぎないこと」となるでしょうか。

定義を記憶する

よくわからない概念に出合ったら、まずは定義を記憶してしまいましょう。たいていのことは、何度も書き写せば記憶できます(そのまま忘れてしまっても問題ありません)。真偽のほどは知りませんが、とある非常に高名な数学者による複素解析の講義の追試験(追レポートだったかもしれません)が「コーシーの積分定理を10回書け」だったこともあるみたいですよ。

自然変換

さて自然変換は、S.Eilenberg and S.MacLane, General theory of natural equivalences, Trans.Amer.Math.Soc. 58 (1945), 231–294で導入されたというのが定説です(歴史については、mathoverflowのHistory of ``natural transformations’’も参考になります)。この原論文を眺めてもらえるとわかりますが、なんと参考論文がほとんどありません。これは自然変換の例を知っていたことと、定義できたことの断絶を示唆しています。自然変換の例として、線形空間とその2回双対の関係(『ベーシック圏論』例1.3.14)や、基本群とホモロジー群の関係などを知っておくのは望ましいですが、与えられた定義が豊かだと信じて、それから出発して徐々に理解していく、という学習法もありだと思っています。

外国語と数学

未知の体系を受け入れて、使っていくうちに直観がうまれてくる、というのは外国語の学習に似ています。この比喩でいうと、母国語が通じないその国に行ってしまうことに相当するのが数学科で行われているセミナーなのかな、と映画「旅のおわり世界のはじまり」(黒沢清監督、前田敦子主演、2019年)をみて思いました(セミナーについては、河東泰之さんによるセミナーの準備のしかたについてが参考になります)。このように、知らない考え方を学ぶには、結城さんの言う「楽しみながら少しずつ」だけではなく、多くのセミナーがそうなりがちなように「短期間に右往左往しながら」の両方の進め方が必要だと感じます。理解には筋肉のような性質があるのかもしれませんね。また数学には、数学的内容以外にも、未知と格闘する中で自己の新たな一面を発見する、という側面もあると思っています(その他には、人との出会いなどもあります)。こういったことも、往々にして、多少の無茶あるいは平穏でない状況から生じる、というのが今のところの意見です。

旅と数学

ついでですが、映画の題名で思い出したのが「D.Eisenbud and J.Harris, The Geometry of Schemes, (GTM197) Springer, 2001年」です。表紙をめくると、次の詩が引用されているのが目に入ってきます。

… the end of all our exploring
Will be to arrive where we started

And know the place for the first time.

-T.S.Eliot, ``Little Gidding’’ (Four Quartets)

日本語訳を「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。ヤニス・バルファキス著 関美和翻訳 ダイヤモンド社, 2019年」の最後に見つけることができて:

そしてすべての探検の終わりに
出発した場所にたどりつく
そのときはじめてその場所を知る

数学には、定義にせよ、定理にせよその証明にせよ、あることを知れば、別のことが深く理解できるという性質があるようです。であるならば、すべての探検とはいかなくても、興味の赴くままに調べたり考えたりするのがよいと思います。効率的な学習法はあるのかもしれませんが、いろいろな回り道をしても、最後は同じところにたどりつくのは、数学という体系が確かに存在し、また自由だからでしょう。

終わりに

主に学習法について、思い浮かんだことを書いてみました。「米田の補題」や「圏論は鳥の目で数学を俯瞰する」についてもいろいろ書いてみたいですが、すでに十分な分量になったようです。また関連する質問に返答する中で、これらについて触れられたらよいなと考えています。引き続き、お手紙をお待ちしています。

追伸

先に挙げた洋書のVI章に、米田の補題と(この本での)使い方が説明されているので、興味があれば眺めてみてください。